26.クラッシック




 とあるホテルの最上階。
 窓際に座っている保田が脇に顔を向けると、そこには用意されたかのように広がるまさに最上級の夜景が広がっている。
 おかわりはいかがですか、と話し掛けてきたバーテンに言い訳をして、取り替えてもらったばかりのピスタチオの殻を割る。
 ちょっと服装が地味だったかな、とか思って辺りを見回す。周りはいかにもわけありって感じの男女があちこちで肩を寄せ合っていたりして、保田は自分の隣の空席をちらちらと探りながら落ち着かなくきょろきょろと視線を走らせた。
 それから数分、いよいよどうしていいかわからなくなって席を立とうかとしたとき、ふと店の入口に片手を上げる人が見えた。

「おーっ。圭ちゃん、遅くなってごめんねー」
「遅いよ、裕ちゃん! 一人で待つのって落ち着けないんだからね」

 そもそも、ここまで徹底的に演出の聞いたバーには慣れていない。店の置くにはピアノがあるし、今もこれから演奏があるらしくドレスの女の人がチューニングしてる。
 いちいち装飾も高そうだし、深紅で埃一つついてない絨毯だって、一歩一歩がおっかなびっくりという感じなのだ。
 中澤は保田の隣に早足で腰掛けると、さっきまで保田の相手をしていたバーテンさんに最初の一杯を注文した。

「圭ちゃんは意外と早かったのね。メールだとアタシの方が早いかなと思ってたけど」
「ちょっとトラブルがあって、今日の仕事が明日に伸びたの。それにここには直接来たから」
「ふぅん。じゃ、そういう服着ていつも仕事に出てるんだ」

 え、と保田は言われてまた自分の着ている服装を見た。さすがにこういう場所に来ることを知っていた分ジーンズではないけど、スーツと呼ぶにはややカジュアルな、柄のない3Dのシャツとふくらはぎ途中までのパンツ。中澤は薄暗い店内でじぃーっとその格好を刺すような視線で観察した。

「そんなじっと見なくても・・・」
「やー、しばらく会わないうちに大人っぽくなったなって。うんうん」
「やめてよー。オヤジくさいなぁ」
「圭ちゃんに言われると思わんかったな」

 と、笑ってそこで目をそらした。丁度注文が来て、ぱちんとはじけたピスタチオの殻を殻入れに投げ込む。
 中澤がおいしそうに目を細めてそれを飲むのを隣に、今度は保田がその姿を観察する。
 ここに直接来たのかそれとも移動中に着替えたのか、自分と違って中澤はこの場所にぴたっとはまる大人な服装。
 普段話すときはそんなに年齢差は感じないのに、こういういざってとことになると、やっぱりこの人とはきちんと時間相応の差があるんだな、と感じてしまう。なんていうか、同じ飲み物を飲むときでもその仕草一つ一つがっていうか・・・。

「どうした? 今日はじめて会ったみたいな顔して」
「うーん。場慣れしてるな、って思ってさ。よく来るの? こことか」
「そんなでもないかな、最近は」

 最近は? じゃ、前は?
 と、思ったけど保田はそれはおいそれと聞いてはいけないことのような気がしてそこで止めておいた。保田が残ったカクテルを飲むフリをして顔を横に向けると、中澤が前髪を適当そうにかき上げたところだった。

「圭ちゃんも、もうすっかり大人の仲間入りやもんねぇ」
「そうかな? けど、こうしてこういう場所来ると、やっぱり自分はまだ子供なのかな、って思うよ」
「十分てわけでなくても、『どちらかと言えば』でいーんやない?」

 と、言いながらもからかい半分に中澤はピスタチオを二つ三つ剥いてあげてから保田に「はい、どうぞ」と子ども扱いして渡す。保田も「どうも」とやけっぽくそれを口に投げ込んだ。
 夜景を真横に斜めに差し込むライトを受けて、さっきまでチューニングをしていた奥のピアノで女の人が一礼する。座って、一瞬会場が静まって、やがて曲が始まる。
 ピアノアレンジされた、「イパネマの娘」だった。

「裕ちゃんはさ、本気でそう思ってるの?」
「ん? 何の話?」
「あたしがさ、大人だって・・・。大人の仲間入りって」
「思ってるよ。なんでそんなこと聞くん?」

 だって、と保田が口を小さくすぼめる。そりゃお酒とか、そういうことはおおっぴらにこの約2年かけてやってきたことではあるけど。
 そういうことと、こういうことはまた違うんじゃないかって思うからだ。要約するならば、自己評価と他己評価ということで。
 中澤は曲の邪魔をしないようにと気を遣いながら肩を上下させて笑った。

「アタシはね、子供をこんなところに誘ったりしないよ。絶対に」
「そうなの?」
「おかしいと思わなかった? だって、久しぶりに飲みに行くならもっと手近なところでもいいやん」
「そうだけど・・・」
「実はね・・・黙ってたことがあるんやけど」

 ん? という保田の顔を指先で手まねきする。耳打ちするように手を添えて、誰ということでもなく言葉を他の人に聞かれないように続きを言った。

「あたしもね、ここに初めてきたんよ」
「え! まじ?! 嘘っ」
「何が『嘘』やん。そこまで驚くところやないやろ?」
「だって、はまりすぎてるんだもん。へぇー、そうだったんだ」
「前から一度来てみたいって思ってたんやけど、中々機会も仲間にも都合がよくなくてね。そんで、この前圭ちゃんに連絡した時、『これや!』と思ったわけ。圭ちゃんとなら行ける! て」
「光栄だね。そう言ってもらえて」
「そうよ。光栄なのよ」

 一人納得顔で中澤は残っていたカクテルを干した。素早く察知したバーテンさんが洗練された手つきでお代わりを、と聞く。保田も残り少ない自分の分をなくして、二人で新しく頼むころ、ピアノで一曲目が終わったところだった。
 軽く指のマッサージをしている女の人のところに別の店員さんが小さな紙切れを届ける。女の人は立ち上がってテーブルの一つに礼をした。新しく曲が始まる。今度はさっきとは趣を変えてクラッシック、ドビュッシーの「月の光」だ。

「リクエスト受けてるみたいよ。ええね、すごい高級感漂ってて」
「裕ちゃんも何か頼んだら?」
「アタシ? アタシは・・・えーよ。そういう曲ってよく知らないし」
「いいじゃん。『ラブマ』とか・・・だめかな?」
「・・・多分、周りのお客さん、つーか、カップルにはったおされるね。間違いなく」

 そうかも、と二人で笑った。
 ピアノのゆったりとしたメロディーラインで、眠る直前みたいな心地よさが漂う。
 保田はしばしその流れの中で頬杖をついて目を閉じる。まるで日常から高飛びした、それまでの騒がしさとは別の世界にいるかのようにも感じる。
 終盤のピアニシモに差し掛かって、薄く目を開くと、隣の中澤が指先で半分ほどのグラスを指で回しているところだった。
 まるで、何か言いたいのに言い出せないでいるような、そんな寂しげなふうにも見えて、保田は声をかけようかと迷った。
 口を開きかけたまま、最後の和音が店内に響く。ぱらぱら、と丁寧な心のこもった拍手がその後につながった。

「裕ちゃん、どうかした?」
「うん。いや、大したことやないけどね」
「もしかして、具合でも悪いの? 今日、ものすごく飲むペースが遅くない?」
「アホゥ。こんなところでバケツみたいに飲めるかい」

 それもそうだ。保田はいつもの表情に戻った中澤のちょっとほっとする。けど、こうしてここでみる初めての顔がなくなったことに後で気がついてちょっとだけ残念にも思う。
 特にリクエストがないらしく、女の人はピアノに戻ると、軽快なカントリー風の曲を弾き始めた。
 保田がそっちに気を取られていたところへ、すっと何かが手元に差し出される。

「? 裕ちゃん、これは?」
「見てわかるやろ? カードや。カード」
「それはわかるけど・・・これって・・・」
「もう。普通言わせるか? ここのやって。ここ!」

 中澤がやや強く足元を指差した。ここ? てことは、このホテル?
 保田は今ひとつ本心がつかめないようで、言った中澤に首をかしげた。中澤は何も言わないですっとそのカードキーを保田に渡した。

「ちょっとね、付き合ってくれないかなーって。思うんだけど・・・」
「付き合う? あ、これって。まさか」
「なによ」
「誘って? ってこと?」

 中澤は答えないでまたピスタチオに手を伸ばした。否定しないってことは、そうだ、と解釈してもよいのだろうか。
 それとも返事が必要なんだろうか。

「一度、泊まってみたかったの。このホテル。それもさ、すごく高い階に」
「ふぅん・・・」
「仕事とかで通りかかるたびにね、憧れいうのかな。『いつかここにきたるーっ』ってね」
「ちょっとだけ、わかるかも」
「そんで、圭ちゃんや。もう言わなんでもええよね?」

 保田はまだテーブルの上に置いたままのカードを、指先で持ち上げるかどうかを思案中。もちろん、断る理由なんてないのだけれども。

「それも、あたしが大人って認めてくれたから? 裕ちゃんが」
「そういうことかな。こんなこと、頼めるのも圭ちゃんくらいしかいないし」
「その言い方、引っかかるなぁ。本気でそう思ってるの?」
「思ってるって。しばらく一緒にいないうちに、大人になりすぎてこっちがびっくりしたくらいよ?」

 三曲目が終わる。
 保田は、そこで中澤がめずらしく照れたように、頬を少し紅くしている横顔を見つけた。
 まったく、そんなことを思っていたなんて、子供だな、なんて場違いなことも考える。

「裕ちゃん、酔ってるんだよね」
「あー。ま、適度にね。うん」
「じゃ、そのここに泊まるって話受けてあげるからさ。そのついでに」
「ん?」
「キスしてよ。今までしてくれてなかったよね」

 中澤が一瞬戸惑った顔を見せる。
 けど、きっと断らないよね。いつもならともかく、今日は。
 保田はそう自分で信じて中澤の顔をじっと見つめた。

 大人って認めてくれたんなら、ちょっとくらい背伸びをして、大人っぽい口をきいたって、許してくれるよね?
 そう思ったところで、しょうがないな、と中澤はかがんで顔を近づけた。

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