31.Locked Out




 カノッサの屈辱。
 という懐かしい言葉がふと市井の頭の中をよぎった。今となってはどのくらい前だったかもよく覚えてないけど、確かそんな事件があったはずだ。
 どこかの皇帝(ハインリヒ4世)が教皇(グレゴリウス7世)に破門にされたもんだから、イタリアのカノッサにあるお城の前で、許してもらえるまでずっと雪の中待っていたっていう事件。
 そんな不吉なことを思い出したからだろうか。自分で自分の肩を必死に揉んだりさすったりしていた市井の足元にちらちらと何かが落ちてきた。
 それは、白くて綿毛で。見上げると毛づくろいの終わったばかりの天使が飛び立った後ろ姿でも残っていそうな。そんなふうにも思える雪だった。

「(いい加減、許してくれないかなぁ・・・。もう1時間は過ぎたぞ)」

 市井は、思って腕時計を見た。その予想が正しかったことに嬉しくない確認をして、もう一度空を見上げた。黒い雲へのささやかな抵抗として、白い息を吐き出す。
 頬に下りてくる細かい氷の塊が次々と溶けていく感じに目を閉じて、このまま自分が雪に埋もれちゃうんじゃないかとも思う。朝になって家の前で雪だるまか。後藤、きっと驚くだろうな。
 そんな想像をしているうちに、少し一人で笑った。鼻先がつーん、と冷えて、一つクシャミをした。そこで鼻をこすりながら背中にしていた家を振り返る。
 二階の窓は開いていた。

「・・・後藤?」
「・・・。いつまでそうしてるつもりなの?」
「と、言われてもなぁ。居ろっていうならここで氷像になるまで? とか」
「ばかー」

 ぴしゃ、と窓が閉じた。あらら、と思ってもう一度窓が開くのを待ってみる。けど、しん、と動きもないどころか、数分と待つうちに、いきなりフッ、と部屋の灯りが消えた。
 まじかよ! と市井は本気でびっくり身体を振り替えさせる。まじで氷柱になるまでここにいさせるつもりなのー?
 数歩動いて玄関にひょっこりと顔を覗かせた。灯りのある玄関で家の中の動きに耳を澄ます。
 扉が開いた。

「いいよ。入って」
「本当? 思わせていきなり閉めるとか、そういう意地悪するつもりじゃないよね?」
「・・・入りたくないの?」
「入りたい! 入れて。ごめんごめん!」

 とにかく、下手なことを言うよりも先に気が変わらないようにするのが大事だ。市井は飛び込むようにして玄関を抜けると、靴を脱ぐ前にぱっぱっ、と肩についた雪を払った。みるみる玄関に白い粉が落ちていく。

「お風呂、沸いてるからさ」
「うわっ。気が利いてる。さすが後藤だね。ありがとー」
「着替えとか、もう出してあるから、それ使って。今着てるコート、乾かすから先に脱いで」

 笑顔でちょっぴり卑屈なくらいに明るく受け答えする市井に対して、ものすごく事務的な口調の後藤。今までこんなことなかったんじゃないかってくらいのポーカーフェイスだし。
 けど、逆らってまた寒空の下に逆戻りはちょっとアレなので、市井は言うことに従って上着とマフラーを渡して、素直に風呂場へ入った。言っていた通り、ほとんどおろし立てらしいネル地のパジャマにいつか自分が泊まった時に置いていった下着。清潔なタオルが用意してあった。市井が手早く着ていた服を脱いでいざ洗い場へと入ると、丁寧に湯加減まで調節してある。

「(これは、どう解釈したらいいんだろう?)」

 ゆったりと浴槽に身体を浸して、市井はそれらのことを必死に推理してみた。
 その推理を客観的に考えるには、こうなったことの発端からを辿った方がいいでしょう。


*****


 後藤は、一日の仕事が終わって、嬉しそうに携帯を取り出した。休憩時間の合間に送ったメールでは、確か市井も今日は比較的早くに仕事が引けるようなことを言っていたし。この分なら自分も早めに終わるから今日は久しぶりに一緒にどこかに行けるかもしれない。
 そう思って二割増な笑顔で仕事をこなしたその日のことである。
 「もう終わったよね? 待ち合わせどこにする?」っていうメールを送った、その数分後のことである。

「・・・おーっす! ごとー、お疲れさまぁー」
「いちーちゃん? どうしたの? ん?」

 メールではなくて直接電話がかかってきた。それを受けた時には、別にいつもと変わらない後藤ではあったのである。しかし。

「なんか、後ろうるさいんだけどー。いちーちゃん、今どこにいるの?」
「今? あ、今ね。そうそう、今○○のレストランにいるんだ。思ったよりも早く歌録りできたからさ、その簡単なうちあげー」
「そうなの? ん? ってことは、市井ちゃん、もう夕飯食べちゃった?」
「あー。うん。誘われちゃってさぁ。付き合いだよ、付き合い」

 後藤は電話を持ちながらお腹がぐぅ、と鳴った。多少遅くなっても、一緒にどこかに行って、そこで食べようと思ったから、お弁当頼もうか? って行ってくれたスタッフさんの言葉も断ったっていうのに。
 後藤は、けど、「そういうこともあるよね」とぐっと不満を飲み込んだ。

「それで・・・どうするの? その打ち上げって、もうすぐ終わるの?」
「それがさぁ、たいせーさん盛り上がっちゃって。奥さんも来てるし、みんなでこれからどこか行かないかって話をしてるんだよね」
「えっ!」
「だから、もしかしたらちょっと遅くなるかもしれないんだよね」

 後藤は我が耳を疑って、市井の声が残る受話器を取ってじっと見つめた。ざわざわ、といかにも盛り上がってるふうな雑音をバックに、市井の「もしもし?」という声が入る。

「いちーちゃん、行くの? これから?」
「やっぱ、私が行かないのってまずいかなーって。思うんだけど・・・」
「ひどいよ。今日は、早く終わったら後藤と一緒にどこかでかけようって話だったじゃない」
「それはそうなんだけど。しょうがないっていうか、場の流れっていうか。空気? そんな、ねぇ?」
「『ねぇ?』じゃないよ。そんな事情、後藤は知らないよ」
「うーん」

 市井は、いきなり機嫌をそこねたような後藤の声に戸惑った。普段、もうちょっと冷静であったら、それなりにうまく対処することはできたかもしれなかったのだけど。何せ今は打ち上げの終わった直後であるし、それにうまくいった仕事とかのせいもあって、機嫌のよさが強気にもなっていた。

「あ、じゃぁさ。後藤。こうしない?」
「何?」
「後藤、今××にいるんでしょ? したらそんなに離れてないし。これからうちらと合流しない?」
「はい?」
「うん。みんな後藤が来るって言ったらきっと喜ぶと思うし。楽しいよ。ね? そうしよ?」

 しかし、返事はすぐには来なかった。
 市井の場所からは、静か過ぎるくらいの電話の向こうであるが。その音があまりにも静か過ぎて、故障なのかって思っちゃいそうでもある。
 ぼそぼそ、と何か後藤が言ったようでもあったけど、よく聞こえない。
 数人が、いつまでも戻って来ない市井の後ろに来て、「どうしたの?」と声をかける。市井は、また小声で何か言ったらしい後藤の声を聞こうとするも、失敗する。
 「すみません。ちょっとだけ今静かにしてくれますか?」なんて背後の人に交渉した、その途端だった。

「いちーちゃんの、ばかーーーっ!」

 ブツ、ツーツーツー・・・
 市井の背後の人たちは、一斉に静まり返ってしまった。
 ありゃりゃりゃりゃ、とおろおろとした市井の脇を、数人が通り抜けては肩を叩いた。

「あのー。すみません、二次会なんですけど・・・市井は・・・」

 何も言うな、と言う感じで、受話器を握ったままの市井にみな同情の目を向けた。



*****


 お風呂から上がって、市井は浴室の扉を閉じると、他の部屋は真っ暗になっていた。市井が勝手知ったる、で二階へと上がると、その一部屋から光が漏れている。
 扉の前で一度咳払いをして、「しっかりしろよ」と自分に言い聞かせた。扉を開く。

「・・・後藤?」
「・・・」

 開くと、やや乱雑な部屋に間接照明だけがついていて、ベッドの上では布団が丸く盛り上がっていた。こっそりと様子を窺うところによると、壁にはさっき自分が渡したコートなんかが丁寧にハンガーにかけられているし、お風呂で脱いだ服も畳んでくれてある。
 ただ一つ気がかりなのが、そこまで完璧にしてあるのに、ベッドの下にあるお客様用らしい布団が、敷かれないまま無造作に山積みにされているということだ。
 市井はその布団の脇でやっぱり「こほん」と咳払いを一つする。

「後藤? 起きてる?」
「・・・。」
「?」
「・・・寝てる」

 布団をかぶって、市井に背中を向けるようにして、後藤は横になっていた。市井は顔の高さをそろえるのと、相手の声を聞きやすくするように、とお客様布団の上に腰を落とした。ずぶずぶ、と重みでちょっと沈む。
 自分のかけた声にかすかにそう答えたのが聞こえて、市井は「やっぱり、まだ完全に許してくれたわけじゃないんだ」と、肩をすくめた。

「あのさ。ごめんね。今日。ちょっと市井も調子に乗ってたっていうか、後藤のこと、あんまり考えてなかった。本当に悪かった」
「・・・いいよ。もう。いちーちゃんは、後藤と二人でどこかに行くよりも、みんなとワイワイやってた方が楽しいんだもんね。そうだよね。市井ちゃんは後藤と違って大人だし、そういうこともあるよね」
「おいー。拗ねんなよぉ。だからこうして謝ってるじゃんか」
「いいもん。謝ってなんてくれなくて」

 こりゃまいったな、と市井は思う。半乾きの髪に、ひんやりとした外の空気が窓越しに伝わってくる。ふとカーテンの隙間から空の様子を見ると、まだ雪は続いているようだった。
 ぶる、と体が大きく一震えして、「くしっ!」とクシャミが出た。

「寒ーい。なぁ・・・」
「・・・うん」
「こんな日は、やっぱり人肌恋しくなるよね。誰かにあっためてもらいたいなー、って思うよね」
「・・・ふぅーん。そう?」
「そっち、行ってもいい?」
「・・・」
「入るよ?」

 言葉では強気ながら、しかし内心びくびくで市井はそっと毛布の端っこを持ち上げた。それまでに温まった空気を逃がさないように、と気を遣いながらゆっくりと足から差し入れて、順に腰と胴と、頭をもぐりこませた。
 まだ背中を向けたままの後藤に、ぴったりとくっついて寄り添う。

「あー。やっぱり後藤がいいなぁ」
「ふーん、だ」
「後藤が市井のそばにいてくれれば、寒い夜も夏空の下だなー」
「? 何言ってるの?」
「いや、心は春の野原? それとも蝶々の飛ぶお花畑? とにかく、こうしているのが、市井には一番の時間だなー」

 そう言って、市井はぎゅっと後藤にしがみついた。体のすぐ前にあった手に手を重ねて、鼻先を首筋にあてる。くすぐったそうに後藤が頭の位置を変えた隙をつかんで、市井は剥き出しになったうなじにキスをしてみた。抵抗はない。
 手を握っていた手をずらして、そっと後藤のお腹を脇で挟み込む。手の先を遊ばせて、胸の上のあたりに乗せた。下着のない柔らかい感触が直接手のひらに伝わる。

「いちーちゃん。くすぐったいよ。やめてー」
「くすぐったい? うーん。やめてあげてもいいんだけど、一つ条件があるなぁ」
「どんなの?」

 気のせいじゃないだろう、ちょっと楽しそうな口調になった後藤。市井は横向き加減になった後藤の頬にキスをした。脇腹をさぐると、よじらすようにしてくすぐったさを避けた。

「後藤にね、こっちを向いてほしい」
「?」
「そんで、ちゃんと謝らせて。ね?」

 耳元で、丁寧にそう市井が言うと、後藤は一旦動きを止めた。さて、どう出る? と市井がはらはらしていると、ゆったりとした動作で、後藤は体の向きを変えた。
 ベッドの中で二人向かい合って、薄く部屋を照らしている灯りで見えにくい表情を探りあう。

「・・・ごめんね」
「いいよ。本当に、謝らなくて」
「けど、後藤は市井のこと、怒ってるっしょ?」
「そりゃ・・・ちょっとは、怒ったけど。けど、もういいの」

 向かい合っていた後藤がふっと顔を横に傾けて、市井に小さなキスをした。ほんの少し眠そうにも見える瞳。市井は、それを聞いて安心したせいで、思わずにっこりと笑ってしまいそうになった。
 あー。よかった、と一安心して後藤をぎゅっと抱きしめる。
 それから、額にキスをして、頬にキスをして、顎にして、唇を重ねた。
 ゆっくりと、長いキスをしようと思っていたところ、いきなり後藤がその肩に手をかけて、市井の顔を放した。指先で、「ちょっと待って」と合図をするように濡れた唇をつつく。

「ね、謝る代わりに、してもらいたいこと思いついたんだけど」
「ん? どんなこと? 何でも言って」

 やや驚き気味に市井はそれを受けた。いや、ここでたじろいじゃいけないし、と強気なフリをしながら後藤の腰に手を回す。
 後藤は、じーっと、そんな市井のことを見透かすように一点に目を見つめて、こう言った。

「『ごめんね』じゃなくて『好き』って言って」
「は?」
「それで許すから」

 市井は最初それを聞いてきょとんとして、しばらくして微笑んだ。
 なんだ、意外とアレですね。後藤さん。て。
 さっそく、とばかりに顔を耳によせて、最初の一回目を囁く。キスをして、それが終わった直後に二度目を言った。
 窓ガラス一枚を仕切った向こうで街が白く染まるまでの間。
 市井は何度もそれを言い続けた。

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