37.忘れ物




 そそもそもの始まりは、というと今からはずっと前の吉澤が娘。に加入してすぐからになる。
 いつものように仕事を終えて、吉澤が通路を歩いているところで、ふとその先に矢口の姿が見えた。「来るかな?」と思ったけど誰か別の人と話をしていたようだったし、そこで余計な気を遣わせるのもなんなので、そのまま通り過ぎようとして背中を向けたところ。
 背後からパタパタと聞き慣れた足音が自分の追いかけて来た。

「よっすぃ〜っ。お疲れさまー。今日はもう終わり?」
「は、はいっ! そうです、おかげさまで・・・」
「って、よっすぃ〜の仕事は矢口のせいじゃないよー」

 つい口走ってしまったことに、矢口は面白そうに笑ってくれた。ふと見ると背後にいるさっきまで矢口と話をしていただろう数人がこっちを見ている。矢口は「ちょっと待っててー」と朗らかに声をかけて、吉澤に腕を絡ませてくっついてくる。

「ね。今日これから暇? すぐ帰る?」
「いやー、別にこれといって用事らしい用事はないんですけど」
「じゃ、これから矢口たちみんなで食事に行くんだけど、よっすぃ〜も一緒にどう?」

 誘われて、吉澤が顔を上げると、後ろにいるその人たちはまだ新人の自分にとってはよほど気合いを入れてでないと席を同じにするっていうのははばかられるような、そんな雰囲気の人たちでもあり。
 吉澤は、すぐに「あ、社交辞令だな」と察した。メンバーがあまりにも偏り過ぎる。

「いえ。今日はよく考えたらお父さんが早く帰ってくる日だったし。残念ですけど遠慮します。またいつか誘って下さい」
「そう? 残念だなー。無理強いはしないけどさ、じゃ、また今度。約束だよ」

 「えーまー」、と吉澤が曖昧に言うと、矢口は気を悪くした様子もなくにっこりと笑って「絶対ね」と肩を叩いた。手を振りながら後ろ向きに歩いて大きな声で言う。

「じゃーねー。よっすぃ〜、愛してるよー」
「あ、は、はいっ!」

 投げキスなんてしながら矢口退場。残された吉澤がおどおどと額の汗にハンカチをあてているところへ、ふと背後から影が忍びよってくる。

「よっすぃ〜」
「わっ! ご、ごっちん。なんだ、どうしたんだよ。いきなり」
「見てたよー。せっかく誘ってもらったのに、断ったね?」
「ていうかさぁ。あれは単なる社交辞令でしょ? 断ることも計算のうち、みたいな」
「そっかなー。後藤には、本当に好かれてるようにも見えるけどなぁ」

 吉澤の肩に顎をひっかけるようにして後藤が話しかけて来た。吉澤は、4期メンをのぞけば(入れても?)一番心を許す後藤を前に、やっと緊張が解けたように振り向いて答える。

「そんなわけないじゃん。矢口さんてほら、あんまりはっきり見せないけど責任感強いし、梨華ちゃんにもいろいろとアドバイスしてあげてるみたいだし。だから、きっと吉澤にも気を回してくれてるだけだよ」
「そう? それだけかな」
「それだけ。教育係だしさ、親切な人なんだよ」

 と、吉澤は体を放した後藤の目を見ないようにそう結論づけた。ふぅん、と言いながら後藤は矢口のいなくなった方向に遠い目を向けた。
 だったらさ、と前置きする。

「もし、本当にやぐっつぁんがよっすぃ〜のこと好きだったりとかしたら、どう? もし、でいいから」
「もし? かぁ・・・。どうだろうなぁ、そりゃ好かれるんだから悪い気はしないけど。けどそれは絶対にあり得ないことなんだしさ」
「? なんでそんなに確信もって言うの?」
「だって・・・ほら、中澤さんとか」
「あぁー」

 なるほどね、と後藤は顎を撫でた。それはそうだ、って感じである。表向きは矢口は嫌がっているようでもあるけど、それはちょっとよく観察すればそんなこともないことくらいよほど鈍い人でない限り察しがつくし。
 こういうと悪い言い方にもなるけど、アテ馬っぽくされてる可能性だって十二分にありえる。
 だから、いいんだよ。と吉澤は言った。

「まだまだ吉澤は勉強しなきゃいけないこともたくさんあるし、そのためには矢口さんのことは大事にしたいしさ。しばらくは大人しくて従順な弟子でいるよ。私」
「えらいねー。よっすぃ〜は」

 とは言うものの、言ったあとでふとぎゅう、と胸が締め付けられたような気もした。自分はもしかして、本心からそう思っているわけじゃないんじゃないだろうか、って思う。
 さっき呼び止められたとき握られた手のひらを、帰りのタクシーの中でじっと見つめながら、吉澤は考えていた。



*****


 疑念というものは、何事にも言えることなんだろうけど、持ちはじめてしまったが最後、どんどん雪だるまでも転がすように大きく膨らんでいくもので。今回のその吉澤の気持ちもその例外ではなかった。
 時々ぼんやりと何を、というわけでもない遠くの景色を見てしまっていたり、考えごとというわけでもないのにぼーっとしてしまうこととかが増えて、吉澤は次第に自分の気持ちらしものを自覚するようになってくる。
 すなわち。

「もしかして矢口さんが、本当に自分のことを好きだったら? そして、自分は?」

 と、いうこと。
 さて、あなたがもしこの吉澤の立場であったとしたら、当時のメンバーでは誰に相談をもちかけますか? 親しい4期メンでしょうか? 自分のことで手いっぱいらしいネガティブだった石川とか、違う新しい路線への一歩を踏み出しはじめていた辻加護とか? そうじゃなかったらどこまでも成り行きまかせの風か雲のような後藤?
 まずはその段階で悩んだ吉澤は、ようやく一人の人に白羽の矢を立てました。

「好きなんじゃないの?」
「は?」

 保田は特に驚く様子もなく、平然とそうはっきりと言った。ちょうど時間が開いた控え室で、二人コーヒーを挟んで向かい合う。まぁ実際は選び抜いて立てた白羽の矢ではなくて、たまたまこういうふうに二人きりになれたことがきっかけだったりもしたのだけど。
 吉澤がきょとんとして、そこまで確信を持っている保田に対して首を傾げた。保田は言う。

「裕ちゃんのことはともかくさ。矢口が吉澤のこと好きだっていうのは本当だと思うよ。あたしも矢口から吉澤の話とかよく聞くし」
「吉澤の話? どどど、どんな?」
「どんなって・・・。『今日は前に教えたことをちゃんと実践してくれてた。すごくよくできた弟子だ』とか『今日の服装がちょっとかっこよかった』とか。悪口じゃないね。その逆か」
「それは・・・その、つまり?」
「だから、『好き』なんじゃないかってこと」

 けど、まぁ「好き」は「好き」としても。それにしてもいろいろと種類があるわけでして。それに・・・そう、中澤さんとの関係だって、本当のところは吉澤は知りませんよ?
 あたしは思うんだけどさぁ、と保田は言った。

「こうなったら、早いもの勝ちなんじゃないの?」
「早いもの・・・」
「だから、先に本気で告っちゃった方の勝ち。ここだけの話、裕ちゃんと矢口、そんな吉澤が想像するほど進んだ関係じゃないよ」
「そうなんですか???」
「多分ね。明日にはなんかあるかもしれないけど、そこまではね。だから、もし吉澤が矢口のこと好きで、そんでちょっと特別に思ってたりしたら、思いきってぶちあたってみれば?」
「て、あの! 吉澤が矢口さんのことを好きになったわけじゃないですよー」
「どっちでも同じでしょ? 好きになったとなられたは表と裏だし、順番が問題なんじゃなくて、今の自分の気持ちの大きさが大事なんじゃないの?」

 なるほど。
 吉澤はそこまで聞いて「うーん」と考え込んでしまった。保田は次に何を言い出すだろう、と期待していたものの、それから次の移動にと自分をスタッフさんが呼びにくるまで、吉澤は目の前で微動だにしなかった。
 ま、それだけ考えるほど真剣だってことだよね。

「ゆっくり考えるんだね。もし変なふうにしくじったら、あたしもできるだけフォローしたげるからさ」
「・・・保田さんは、どっちの味方なんですか? 中澤さんと吉澤の」
「うーん。うまくいった方かな。強いて言えば、あたしは矢口の味方」

 じゃぁね、と肩をポンと叩かれて、保田は部屋から出て行った。
 さて、残された吉澤が次にとるべき手立てというのは何なのだろう。
 しかし、結論は簡単に出るわけもなく、よいタイミングも訪れたりしなかったりで、その続きはそれからだいぶあと、中澤が卒業をしていなくなるまで据え置きとされてしまうことになった。



*****


 しかし、きっかけというのはどのようにして訪れるかは人智を超えたもので。その中澤の卒業、ということがそれまで累積してきた吉澤の悩みへの引き金にもなった。
 中澤がいなくなって、寂しそうに一人椅子に腰掛けている矢口に、吉澤はものすごくおいしいシチュエーションで巡り会ったりした。
 電気もつけない薄暗いレッスン室の片隅で、矢口はゆっくり歩いて来た吉澤に顔を上げた。

「よっすぃ〜? どうしたの? ここに何か忘れ物?」
「あ、いえ。えーと。はい!」
「んー?」
「吉澤は、ここに大事なものを忘れ物してます」

 言われて、矢口はびっくりしたように自分の周囲を見回した。いくつか休憩用に椅子の並ぶコーナーだったが、ちょっと見た感じ何かが置き去りにされているというふうには見えない。
 きょとんとしているところへ、隣に吉澤が腰掛ける。

「矢口さん。中澤さんがいなくなって、寂しいんですよね」
「寂しい・・・っていうのかな。うん。だって、今までずっと一緒だったし、なんかあればすぐかまって来た人だからね。いっつもかけっぱなしにしていた音楽が、突然聞こえなくなったみたいな感じ」
「それを、『寂しい』っていうんですよね」

 はは、ちょっとクサいね、と矢口はいつもの弾けた感じをちょっと陰らせて笑う。吉澤は、思いきって手を伸ばすと、そのひざの上にある小さな手のひらに自分のものを重ねた。

「でも、矢口さん。大丈夫です。心を痛めないでください。矢口さんは一人じゃないんです」
「うん。そうだよね。そう」
「吉澤は、もし矢口さんが寂しいって思うなら、いつでもそばにいます」
「よっすぃ〜」
「寂しいって思う時、いつでも吉澤のこと。これからは頼りにしてほしいんです」

 はた、と目を合わせる。吉澤は精いっぱいに真剣な顔をつくって矢口を見つめた。矢口が、ほんの少しそれに頬を赤くしたようにも見えた。ありがとう、と小さな声でつぶやく。

「よっすぃ〜、成長したね」
「そうですか? 嬉しいなぁ。矢口さんにそう言ってもらえると」
「矢口も、そんなふうに強気で誰かを支える力が欲しいよ」
「?」
「矢口もさ、今よっすぃ〜が言ってくれたみたいに、しっかりと言ってあげたい」

 はー、と大きなため息をついて矢口は顔を天井に向けた。吉澤は、その先の不穏な空気を感じて目を細かくまばたきさせてしまう。

「ありがとう。よっすぃ〜。矢口、これからちゃんとしっかり支えてあげられそうな気がしてきた」
「そうですか? よかったです・・・」
「なっちがさ、人には見せないけどかなり落ち込んでたみたいでさ」
「ははは・・・」
「矢口は、だからしっかりとそれを支えてあげないと」

 うん! と張り切って矢口は椅子からおりた。吉澤の座る椅子の横で軽くストレッチをして、それからまた気合いを入れた。

「よーし。もうひと頑張りだし。そろそろ矢口は戻るね」
「そうですか? あ、じゃ。吉澤はもうちょっとここに残ってますよ」
「そっか。忘れ物がまだみつかってないもんね」

 そうなんですよね。
 そこで、矢口は元気をとりもどしたらしくいつもの笑顔で休憩コーナーから走っていった。その背中に手を振って、最後まで見送ってから、吉澤は矢口のさっきまで座っていた椅子。それと自分のいま一人たたずんでいる場所を見回す。
 今日は、教訓を一つ得たような気がします。一段大人の階段を上ったのかもしれないです。
 吉澤は思った。

「(忘れ物は、置き去りにし過ぎるとなくなっちゃうことがあるんですね。持って行かれちゃうんですね)」

 なんとなく、中澤さんに夜電話をかけたくなってきた。そんな夜だった。

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