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21.子犬でダン
保田はテーブルに手をついた姿勢で、じっと部屋の奥からの楽しそうな声を聞いていた。
ほとんど頬を上にずり上げるほど強く押し付けていて、手元にあるグラスの氷の音にまで退屈さが伝わるようでもある。
からん、と音が響くと同時に保田が姿勢を立て直すと、声は一旦止んでトコトコ、と小さいものが部屋から登場してきた。
「こらこらこら〜っ。まだそっちに行っちゃダメだよ〜」
滅多に聞けないような甘ーい声色である。保田が出口方向に逃げようとするその物体の動きをちょっと妨害して手を伸ばすと、捕まる前にと保田に警戒を示して逃げ出す。
「あ、圭ちゃん。ダメっしょ。今意地悪したの見てたよ?」
「しーてーなーいっての」
「じゃ、ウマが合わないってやつ? あ、違う『イヌが合わない』?」
さしておもしろくもない冗談を言って、市井は自分で受けた。保田もなんとなくお義理で笑ってあげるものの、少々口許が引きつってしまう。
逃げた犬は部屋の中をちょこまかと動き回ってから、市井と市井の抱き上げているもう一匹の犬に向って尻尾を振りつつ走ってきた。
市井が抱いていたその足元のものよりも少々大きめの犬を下ろすと、まとわりつくようにしてじゃれあう。その様子をうらやましいと思ったのか、奥の部屋からもぞろぞろと後続の犬どもが出てきては家族団らんを始めた。
「家族っていいね! ほら、あの微笑ましいことったら。ねぇーっ」
「そうだね。うん。かわいいかわいい」
「何? 圭ちゃん、本気でそう言ってるの? あれをかわいいと思わないなんてねー、あんた鬼だよ。人の皮をかぶった悪魔だよ」
「・・・そこまで言うか?」
冗談ぽく笑いながら保田がごまかすものの、市井はテンション高く大笑いしている。笑いながらも視線は自分ではなく、部屋の中でじゃれあう犬たちの姿だし。
感動を隠そうともしないではしゃぐ市井を見ながら、保田は複雑な表情で目の前のグラスの氷をストローでかき回した。
「(ま、予想できなかったってわけでもないか・・・)」
市井から、数日前から連絡は入っていた。ほとんど育児日記(胎児日記?)みたいな感じで、その日その日で――――飼っていて前から保田も何度か見せてもらったことのあった愛犬が身ごもったとかで―――――過程を事細かに報告していたのだった。
途中までは保田もその犬のことを憎からず思っていたので、かなり親身に話を聞いたり時にはお見舞いに行ったりまでしていた。
ここだけの話だけど、そうしてお腹の中で大きくなる新しい命を市井と共有しているのは楽しいことだったし、なんていうか・・・だから、ちょっと嬉しかったりしたのだ。変な話だけどね。
ところが、である。
「ほらー。圭ちゃん、見た? 今の。あんなことまででもうできるようになったんだよ。すごくない? 天才だよ。犬の天才。さすが市井の娘だよね」
「・・・あんたが生んだんじゃないじゃんか」
「同じようなもんでしょ? ペットの子供は市井の子」
「市井の子供は市井の子? ジャイアンじゃないんだからさ」
生まれてみたら、これである。
無事に出産が終わったと聞いて最初の休みに、ほとんど飛ぶようにしてその様子を見に来たっていうのに、この態度といったら。
よくある話、それまではアツアツの新婚夫婦が、子供が生まれた途端に妻が子供に付きっ切りになってしまうために父親がちょっと疎外感を覚えるようになるなんてことも聞くけど。もしかしたらそれに近いものがあるのかもしれない。
そうでなかったら、生まれたと思ったらすぐに「これはあなたの子じゃないの」なんて告白されるとか。・・・やめよう。嫌過ぎる例えだ。
「・・・圭ちゃん、本当にかわいくない? あの子たち」
「かわいいよ。うん。あたしだって飼ってるもん、かわいくないわけないじゃん」
「けど、さっきからあんまり機嫌がよさそうじゃないからさ」
やっと気づいてくれたんかい。と、保田は心の中で呟いた。
やっと冷静になってくれた、と言うべきか。ま、この部屋に来てからずっとその小犬達につきっきりで自分のことをノロケ聞かせる人型くらいにしか扱ってくれてなかったからね。それに対してさすがの保田圭でも不機嫌な態度になっちゃうのは仕方ないってもんで。
保田も、いくら扱いが不十分だったにしろちょっと不服な態度が露骨すぎたかな? と反省もしてみた。
そうそう。何はともあれ、今目の前にいるこの子たちには何の罪もないんだしね。
「あたしも、ちょっと抱いていい? 意地悪しないからさ」
「うん! いいよ。どうぞどうぞ。遠慮なく」
「じゃ、遠慮なく」
保田がさっき自分が妨害したせいで逃げ出した子犬に手を伸ばした。一瞬怯えたような顔をしたけど、保田とて動物に慣れていないわけでなし、舌を鳴らしたり指先で額とか喉元とかをいじってあげると徐々に自分にも尻尾を振ってくれるようにもなった。
「もともとは、人なつっこい性格してるみたいだね」
「そうでしょ? そうなのよー。他にも何人か友達に見せたんだけど、その子が一番やんちゃっていうか、慣れてて、サービス精神も旺盛で」
「いいことだよ。おいっ、お前は世渡り上手な子になるぞぉー」
すっかり警戒心を解いたらしい子犬を、保田は抱き上げた。もう気持ちの関門は突破したのか、保田の腕の中で楽しそうにじゃれて、保田が背中とかお腹とかを触ったりしても嫌がる様子はない。
他の親犬子犬を世話しながら、市井はそれを横目でちらっと見た。
「なんか、すっかりいい感じになってない? もしかして気に入ってもらえたの?」
「そうみたい。いいね、この子。うちのキャンディーの機嫌のいいときみたいだよ。こんなになついてくれるのって」
「ふーん、そうなんだ。へー」
「いやー。本気でかわいい、この子。もらって帰りたいかも」
「そ、それは! 圭ちゃんっ」
「わかってるって、冗談冗談」
保田が抱き上げていた手を下ろして自分が床に腰を下ろす。けど子犬は逃げることもなさそうで、座った保田の周りをとことこと走っている。
保田が目を細めて身体をかがめると、子犬はそれに顔を寄せて鼻先をぺろりと舐めた。保田がくすぐったそうに笑う。
「ちょ、ちょっと待った」
「ん? どうしたの、紗耶香」
「あの、なんかわかんないけど。ダメ、もうおしまい」
「へ?」
「さ、みんな帰りましょうねー。ここは本当はダメなお部屋だからねー」
市井はそう言って犬たちを押して最初の部屋に入れた。入れ終わって、エサも水もきちんとしているのを確認すると、ばたん、と扉を閉じる。
保田が「?」と首をかしげると、一息ついた市井が急にそれを上目遣いに仰ぎ見る。
「圭ちゃん!」
「なんだよ・・・急に、どうしちゃったんだよ」
「あのね、あの子たちは、市井の子供なの。わかる?」
「ん? (違うけど、まいっか)」
「だから、やっぱり市井に一番なつくべきだと思うし、その・・・そういうわけなの」
「???」
「あーもー。なんだよ。圭ちゃんのバカっ」
「バカとはなんだ」
ダンっ! と市井が気持ちをうまく口にできないもどかしさらしく足を踏み鳴らした。
けど、口にできなかった、というだけで保田にはその内容がなんとなく察しがつくような気もする。
やれやれ、と保田はまだ扉の前にいる市井に手招きをする。
おとなしく従う市井はそのそばに来ると、さっきの子犬よろしく隣にちょこんと座った。保田もそれよろしく市井の手を取ると、優しく何度か撫でた。
「子犬。まぁ、かわいいよね」
「うん。かわいいよ」
「子犬も、ま。かわいいね」
こつん、と頭をぶつけて市井の肩を引き寄せる。すねたみたいに市井が保田の上着の裾を握って手元で弄ぶ。
そうそう。そうなんですよ、市井さん。あたしはね。
保田は思うと笑いそうになりながら市井の腰に手を回した。
本当に会いに来たのは、あなた本人なんですよ。
わかったのか、わからないのか。市井がもう一度小さく「圭ちゃんのバカ」と呟く声が聞こえたような気がした。
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