三角形




 うつらうつらと眠りについて、一時間もしたかしないかというところだったと思う。
 保田は自分の背後でなにやらごそごそと怪しげな音がしたのを感じて眠い目を何度かしばたかせた。なんとか気合で身体を後ろに寝返りした時、そこに小さな人影が暗闇の中にあった。

「圭ちゃん。圭ちゃん。もう寝ちゃった?」
「あー、うーん。寝てたぁー・・・」
「ちょっといい? ね? ちょっとだけだからさ」

 そう言って、保田のかぶっていた布団を持ち上げて、文字通り潜り込むという仕草でその人は隣へ横になった。ツアー中のホテルの一室で、今は3人一部屋のはずである。
 広めのツインにゲストベッドを出すことにしてたけど、就寝前のジャンケンで保田は窓側の本ベッドに寝ることになっていたはずだ。
 ちらっと薄い光を便りに足元を見ると、奥のゲストベッドでは小さな背中が規則正しく上下している。と、いうことは今隣にいるのは・・・

「紗耶香? 眠れないの?」
「うん・・・ちょっと、だけね」

 同じくジャンケンで買って、壁側のベッドに寝ることになっていたはずの市井だった。ゲストベッドでは矢口がその物音に気づかないらしくぐっすり眠っている。保田は矢口に気を遣って、騒がしくしないように、と市井との距離を縮めた。
 お互い、布団をかぶって丸くなって向かい合うような格好になる。

「どうした? またヘンな幽霊とか見たの?」
「ううん。そういうんじゃないけど、ちょっと」
「紗耶香らしくないね。どうかしたの?」

 市井が、またもう少し自分にくっついて、額をこつんとぶつけた。保田が辛抱強くその先を待っていると、市井は二人の上に乗っかっている布団を頭からすっぽりとかぶせるようにした。

「矢口に聞かれたくないんだ」

 起こさないように、というだけじゃないだろう。口調からは単純じゃない心理がにじみ出ている。保田は欠伸が出そうになるのを必死にこらえて、市井の話に集中しようと努力した。

「矢口、タンポポに入るんだよね・・・」
「あー・・・。その話か・・・」
「この話、したくない? 圭ちゃんは」

 その話を聞かされたとき、正直ちょっとショックだった。当然だけど、同期で入った仲間に、年齢とかは抜きにしても出し抜かれるというのはそんなにめでたいという話ではない。もし、それが自分たちの競争心をあおるための「大人たち」の策略の一貫だ、とわかっていたとしても。
 だけど、矢口とはそれまで仲良くやってきていたし、そこで嫉妬心を剥き出しに、なんていうのはあまりにも大人気ないことだと思ったから、それまでずっと「おめでとう。頑張ってね」と口では言ってきたのだ。
 それに、自分よりも年下の市井が、感心するくらい大人な態度で自分よりもうまいくらいにその態度をしてきたという手前だってある。
 なのに、その紗耶香が、である。

「ううん。圭ちゃんは何も言わなくていいや。ちょっと、市井の話を聞いてもらいたいんだ。時間はとらせないからさ」
「・・・うん・・・」
「市井はね、なんていうか・・・すごく、悔しいよ」
「・・・」
「矢口がを憎たらしく思うとか、そういうんじゃないよ。矢口のことはちゃんと好きだし、ずっと友達でいたいって思うし・・・」
「・・・うん」
「だけど、やっぱり。市井は悔しい」

 淡々とした調子でそう言う市井は、声と同時に何かを押し殺しているようにも思えた。保田は、それにどう返事するべきかどうかっていうのを、話を聞きながらずっと考えていた。
 感じていることには、そう差はない。
 そう言ってしまうのはたやすいことかもしれないけど、そうしてしまうのはいけない。
 けど、そのことも市井にはよくわかっていたはずた。

「負けたくないって。すごく思うんだ。このまま」
「うん。そう思うのは、間違いじゃないよ。あたしだって思うもん・・・」
「いつかきっと、もっと頑張って。続けて。そんで次のチャンスが来たら、そんときには絶対に、って」
「うん・・・」

 そこで、市井がぎゅっと保田の胸元にしがみついてきた。
 保田はその小さな背中に手を伸ばして、細かく震えている背中を何度かなだめるように撫でながら、その短い会話の中にあった複雑な市井の気持ちを汲み取っていた。
 あたしだって、紗耶香と気持ちは一緒だよ。そう、何度も心の中で呟きながら。

 どれくらい時間が経ったか。
 まだ夜も明けない暗いうちに、そっと市井は保田の腕の中から抜け出した。
 ベッドから出る瞬間、一度だけちらっと振り返る。微妙に眠くてぼんやりとしていた保田の耳元に、唇が触れるほど口を寄せて最後にこう言った。

「どうもありがとう。これ、今日二人だけの秘密だよ」
「ん・・・」

 夜明けが近いのか、市井の抜けたときに冷たい空気が布団の中に入ってきていて。保田が薄く開いた瞼の隙間から市井が隣のベッドに潜り込むところが見えた。
 まるで本当に一晩の夢だったような、そんな感じがしながら、保田はまたそこで眠りの続きに入った。



******



 部屋の扉が開いた音がして、保田は目を醒ました。なんだか昔の夢を見ていたような気がするけど、はっきり内容は思い出せない。
 思い出そうとしている前に、そのホテルの一室に入って来た人が自分の横に腰掛けた。保田は体をちょっとずらしてその人の姿を窺うと、それは同室である矢口だった。
 自分の保田寝ている脚のあたりで腰をおろして、じっとうつむいたまま手を膝の前で組んでいる。
 保田はうーん、と寝返りを打って、相手に起きていることを暗に教えてみた。

「圭ちゃん、起きた?」
「うん。たった今ね。矢口は? 打ち合わせは終わったの?」
「お仕事の方のはね、だいぶ前に終わってたんだ。ただね・・・」

 組んだ手の上に顎を乗せて、矢口は目の前の白い壁と真剣ににらみ合っているみたいだった。保田は、あの話かな、と思った。と、いうかその話しか考えることなんてできない。

「紗耶香とさ、さっき話してきたんだ」
「あ・・・そうなんだ。やっぱりね・・・」
「圭ちゃんには、もう話してたんだ。辞めるって・・・」

 どう思う? なんて聞くのもものすごく的が外れている。
 そんな誰かが話をしてそれでなんとかなるような問題だったら、その前に自分がすがり付いてでも止めようと努力をしたはずだからだ。そうしなかったのは、そんなことくらいじゃどうにかなることじゃないってことをわかっていたからだ。もう、それはただの結果報告でしかないニュースなのだ。

「ねぇ、圭ちゃんはこの話。したくない? もう」
「・・・んー・・・」
「あ、じゃいいよ。ただねー・・・、矢口がちょっと言いたいことがあるからさ。聞いてくれるだけでいいよ」

 そこで作ったような笑顔が自分に向けられた。なぜか感じなくてもいいはずの罪悪感を感じてしまいそうになるような、そんな顔だった。

「何て言えばいいのかな。この気分て。すごくねー、歯がゆいの。そんで、悔しいの」
「・・・」
「だって、本当にそうなる前に、相談する相手とか、やらなきゃいけなかったこととかもあったんじゃないかって思うんだよ。矢口はね。それなのにさ・・・」

 心底からそう思っているのか、矢口はばしばし、と手元のベッドのスプリングを平手で何度も打った。保田は横になっていた身体を起こして、矢口の隣に座る。

「紗耶香を、ってんじゃないよ? 矢口は、紗耶香のこと大好きだし、もし・・・だからこれからどうなっても、きっとずっと友達でいたいって。そう思ってるんだよ?」
「うん。わかってるよ」
「けど、今はさ・・・やなんだよ。こういうの。イライラするの。とにかく悔しいの!」

 矢口が「だぁーっ!」と頭をかきむしるようにしたので、保田は手を伸ばしてその肩に触れた。その合図を待っていたかのように、矢口がそこで保田の胸に飛び込んだ。
 言わなくても言いたいことがわかる、というのも変だけど、保田は矢口がどういう気持ちで、何に一番心を乱しているか、よくわかるような気がした。
 多分、同じことを考えていたからじゃないかと思う。

「・・・言わないでよ? 紗耶香にさ。矢口が今言ったこと」
「言わないよ。言うわけないじゃん」
「本当だよ? 二人だけの秘密なんだからね」
「わかってる」

 ぎゅうっ、と矢口が保田の背中に回した腕に力を入れた。
 保田は、矢口の頭越しに壁を見つめながら、なんとなく懐かしいような、不思議な気持ちになった。
 既視感とでもいうのか、そんな感じ。

「・・・」
「圭ちゃん? どうしたの?」

 自分の体が震えていることを、矢口に言われて初めて気がついた。最初、自分は笑っているのかな、とも思ったけど。

「圭ちゃん・・・。どうしたんだよぉ。急に・・・泣くなよぉ・・・」
「泣いてなんて、いないよ」
「泣いてるよ。しっかりしてよ」

 相手の指先が自分の目じりの辺りを撫でて、それが本当だってやっとわかった。
 だけど今悲しいって思っているのはきっと矢口が思っているのとは少し違って、紗耶香がいなくなってしまうってことよりもむしろ。
 今まで作ってきていた三角形が崩れるってことなんだよ、と保田は思った。

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