8.雨の日




「あのさぁ、石川には、あたし××な××××××××××××よね」
「えぇーっ?」

 石川は手のひらを耳に、その声を聞こうと一歩近づいた。
 だけど、近寄った時にはもう保田は笑っているだけで、もう一度、とせがんでもそれすぐにはもう一度言おうとしてくれなかった。
 急に振り出した雨はまるでバケツをひっくり返したかのような勢いで、窓や屋根を叩く音の大きさに、会話もかなり大声でないと聞こえないくらいである。

「保田さん、今なんて言ったんですかーっ?」
「別にー。大したことじゃないよ」
「気になりますーっ!」

 すぐそばにいるのに怒鳴りあうくらいの声量で、二人そんなことを言う。石川が抱きつくようにしてまた顔を覗くけど、保田は肩をすくめるだけでもう一度言おうとなんてしてくれない。
 石川は仕方なく考えると、さっき聞こえたままを口に出して聞きなおしてみる。

「・・・『石川が稲荷寿司を食べた?』」
「はい? ちょっと、あんたいつ稲荷のお寿司なんて食べたんだよ」
「いえ、最近食べた覚えはないんですけど」
「じゃ、なんであたしがそんなこと言うんだよ?」

 石川のリスニング結果に、保田は「なんだそりゃ」と言って大笑いした。食い下がらず石川があてずっぽうをさらに繰り返していると、やっと小休止に入ったのか、雨は小降りになり始めた。
 それまでの台所での洗い物を投げ出して、石川はもうそんなことも忘れた、とばかりに保田のそばに貼りついて謎解きに集中をする。
 二人だけの部屋で、二人でこうして過ごす日も、もうそんな珍しいっていうほどでもない。
 今ささやかに食事を終えて、これからいつものようにマッタリ時間を過ごそうかとしていた矢先であったわけだけど。
 急に振り出した雨にいきなりその邪魔をされたような格好である。

「もう一度言ってくださーいっ」
「いいよ。言わなくても。だから大したことないってさっきもさ」
「けど、聞きたいんですー。もう一度だけでもいいからー」
「たく、しょうがないなぁ・・・」

 なんとか会話ができるくらいになったことがわかって、石川はほとんど抱きつくほどだった体を離した。保田がさてと、と窓の外を見るのを覗き込むようにして石川が構える。
 保田は雨の様子を見てから、こほん、と一つ咳払いをした。

「あのね、石川は。あたしのことをどう思ってるかな、って」
「何ですか! そんなことをさっき言ったんですか?」
「えぇと、まぁ・・・その・・・」

 石川が怒ったような言い方でそう言って睨んだ。保田は本当に何か悪いことをしてしまったかのような気分になって後ろに身体を引きかけた。
 にらめっこのように、顔をぐいっと近寄せる石川と、受け手に顎を引く保田。
 先に破顔したのは石川の方で、一笑。

「言わなきゃわかんないことですか? 今さら?」
「あ、そういう意味か・・・あははは・・・」
「他に何か違う意味が?」
「それもそっか」

 空気が和みかけたとき、そこで、またさっきまで休んでいた雨が再び降り始める。
 窓が瞬くように一瞬光って、石川がごろごろ、と小さく遠くで鳴った雷に振り向いてしまった時だった。背後で保田の声がした。

「石川にとってさ、あたしが××××く×××××つ×××な?」
「えっ?」

 再び石川が振り向く。と、同時に体の脇に腕を通された。子供かぬいぐるみにするみたいな手つきで柔らかく包みこんで抱きしめられる。
 石川は聞こえた断片を埋めようとまた頭を回転させる。知っているはずの単語を頭の中で整理させて、一番最初にちょっとだけ聞こえた声と合わせて解読を試みた。
 けど、その思考を邪魔しようかとするように、耳元で保田が低くひそめた声で呟く。

「ずっと一緒にいれたらいいのにね」
「保田さん?」
「石川の頑張ってるところ、あたし大好きだからさ」

 ぎゅぅ、と強く抱きしめられる。
 石川は床についたままになっていた自分の手を持ち上げて、ゆっくりと保田の背中に回した。自分からも少し強めに肩に後ろから腕を回して、体勢が安定したところで身体を相手にもたせかけて、目を閉じる。
 ざぁざぁ、と雨足が次第に遠ざかるような、そんなふうに思えた。

「石川も、頑張ってる保田さんが好きです。強気な保田さん」
「頑張ってないあたしは?」
「頑張ってなくても好きですけど、けど。・・・頑張ってるところが一番好きです」
「それも難しい注文だね。気が抜けないじゃん」

 なんて。本当はどっちが、なんて決めることもできないんだけど、今日はなんとなくそんな気分だから、と石川はあえてそれを訂正しなかった。保田が訂正の入らないそれにかすかに胸を震わせて笑っているのが伝わる。

「さっきのこと、やっぱりちゃんと教えてくれませんか」
「さっき? あぁ、雨で聞こえなかった?」
「二度もです。どうしても気になるんですけど、ダメですか?」

 保田は考え込むようにしばらくじっとしていたけど、窓を濡らしている雨がピークを過ぎたらしいことを見て取ると、ふぅ、と石川に聞こえるように小さなため息をついた。

「ダメ」
「えーーーっ! なんでですか。さっきは言おうとしてくれたんじゃないんですか?」
「さっきはさっき。今は今。それに、二度も言おうとして伝わらないってことは、つまり『言うな』ってことなんじゃないかな」
「誰が?」
「だから、雨が」

 保田の理屈に大抗議して、石川が胸のあたりを何度か叩いた。
 保田が言うには「本当に大したことじゃないから、ここまで引っ張ってから言うとかえってしらけるでしょ?」とのこと。

「じゃ、今日じゃなかったら、いつか言ってくれるんですか?」
「ん? あ、あぁ。そうだね。そのうちいいタイミングになったら、かな」
「約束してくださいー」

 石川が小指を差し出した。保田は、つられてつい自分も指を出しかけたものの。すぐに思い直して指を引っ込める。
 その態度に石川がまた抗議しようかと保田を振り仰いだ時、ふわりと手のひらが額にかかった数本の髪の毛をたくしあげられた。ああ、と何もかも承知したように石川が目を閉じると、同じくらいお約束だったかのようにキスをされる。
 色っぽい指きりをしているかのような、時間をかけたキスだった。

「いつかね」
「絶対ですよ。そう言ってごまかさないでくださいよ」
「あははー。今日は随分しつこいんだね」

 保田としても、そこまで食いついてくる石川がほんのちょっと意外でもあった。確かに、自分が逆の立場だった、同じように聞き出そうとしたかというと可能性は高いけど。それにしても、である。
 妙な勘でも働いているのかな、とこっそり思う。

「石川は、保田さんのことを知りたいんですよ。もっともっと」
「もう十分じゃないかとも思うけどね」
「十分なんてことはないですよ。まだまだ、だって時々・・・保田さん、何を考えているかわからなくなることがあったりするし。だから、石川にはまだまだなんです」

 そんなとき、こっちがどのくらい不安か、それもわかってないでしょう? 石川は付け足した。そういうものなんだろうか。自分じゃよくわからないな、と保田。
 言葉が途切れると同時に、石川はそれまで回していた手を前に保田の頬を両側から挟みこむようにして、目を覗き込んだ。
 視線をそらすことを禁じられたみたいで、保田はちょっとだけ目のやり場に困る。

「もっともっと。教えてもらいたいことが一杯あります。わからないことも、たくさんあるんです」
「あたしだって同じだよ? あたしが知りたいって思ってることだって多いんだ」
「それは、石川がいると知ることができないことですか?」

 口調は普通だった。だけど、どことなく最後の一言は、それまでの一言と印象が違った。
 保田がした方がいいんだろうか、とフォローの言葉を選んでいたときである。

「石川には、まだまだ、ずっと保田さんが必要なんです」
「・・・?!」

 頬を挟みこんでいた手に少し力が入れられた。保田は目をぱちくりさせて、それから自分も相手を抱いていた手を離して、自分の頬の上にある手のひらに重ねてつかむ。

「石川? あんた、まさか。さっき・・・」
「聞こえませんでした。何にも聞こえなかったんですよ」

 石川は言って笑った。そして、保田の手のひらを引き寄せて自分の唇におしあてる。手のひらに、直接何かを語りかけるように口を何かの形に動かして、それからその手を解放した。
 保田はそれが終わると同時にまた抱きしめて、「ごめん」と呟いた。

「今日は、聞かなかったことにします。いいですよね」

 保田はこくん、と石川の肩に顎を埋めるように頷いた。
 石川は、黙ってしばらくそんな保田の背中を丁寧に何度も撫でていた。雨が止むまで、こうしていいですか? と聞くと、保田は反対しなかった。



「石川には、あたしがいなくても平気になる日が来るよね」
「石川にとってさ、あたしが必要なくなる日は、いつなのかな?」

 今日の石川は強気なあたしが好きだって言ってる。だから、今日はもう言わないことにしよう。
 そうして保田は雨の音を聞きながら、さっきつい口にしてしまった自分の言葉を思い出していた。

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