12.読書中




 けたたましいくらいに玄関からチャイムが響く。保田はちらっとその方向を見て、それからまだ名残惜しく行を目で追って、半分だけ腰を浮かせたところでまたチャイムが鳴った。
 はいはい、わかりましたよ、と独り言して席を立って、扉を開くとそこにはふてくされた顔があった。

「遅いよ? 何やってたの?」
「いやー、ちょっとその。本読んでたところでさ」
「本?」

 玄関先で複雑な靴を脱いでいる石黒に、保田は指を挟んだ一冊の本を見せた。カバーがかかっているけれども、先日中澤と話しているところを見ていたので、おおよそのところは察しがついている。買おうかどうか迷っていたのを偶然持っていたとかで、すごく喜んで借りていたんだっけ。
 石黒がやっとのことで底の厚いブーツを足から引っこ抜くと、保田は部屋の中へ入りながらもまた読みかけの本に目を落としている。
 遅れて石黒が部屋に入ると、保田は本を読みながらコーヒーをカップに注いでいるところだった。

「おもしろい本なの?」
「うーんとね。今ちょっといいところだからさ」
「そんな夢中になるくらい?」
「あ、うん。えと。ここがね、もうちょっとで章が終わるから・・・」

 一旦カップに目を移して、それがちょっと多いくらいに注がれているのを確かめて、保田はその下に敷いてある皿にスプーンを乗せて石黒の座るテーブルに運んだ。
 向かい側にはさっきまで自分が座って飲んでいたのだろう半分くらい残ったコーヒーカップもあって、石黒が渡されたカップを口につけると、保田は向かい側に腰掛けて同じようにぬるく冷めたコーヒーを口に運んだ。

「・・・まだぁ?」
「ん。もうちょっと。すぐだから、ごめんね」
「あのさぁ・・・」
「ちょっと! ほら、あとこれだけ。お願い」

 と、保田は本を持ち上げて数ページを石黒に見せた。あと4ページというところで、石黒にはそれは「すぐ」の範囲に入れてもいいんだろうかと思う。保田はだけど気にしない。
 話し掛けてもまるで生返事でノレンを押してるがごとくな態度にも何も言わずに、石黒はしばらくそのまま本を読み続けている保田の顔を見ていた。保田は時々顔にかかる前髪を指先で押し上げたり、どんどんぬるくなっていっているコーヒーを飲んだりを繰り返している。
 ものすごく静かで、保田のページをはぐる音だけが部屋の中に響いていた。

「圭ちゃん。コーヒーもうないよ」
「あ、そう? あーうん」
「私のじゃなくて、圭ちゃんの。お代わり欲しくないの?」
「うん・・・」
「私がいれてあげるよ。いいよ、座ってて」
「ありがと」

 短くお礼を言う保田。石黒は席を立つと保田の目の前にあるカップを手にとってさっき保田がいた台所の真ん中に入る。
 コーヒーメーカーには残り少なく、しかもちょっと時間がたったものみたいだったので、石黒は思い切って中身を流して、新しく豆を取り出して紙フィルターを取り出して丁寧に折った。
 新しくお湯を入れてスイッチを押したところで「こほん」と石黒は咳払いをしてみる。けど、保田はちらりとも顔を上げないでずっとその本に没頭している。退屈そうに石黒がキッチンの流しで肘を組むと、ごぼごぼ、と沸騰したお湯がゆっくりと下に落ちていく音が聞こえる。
 最後の一滴ががぼっ、という大き目の音を鳴らしたのと、保田がページの最後をはぐったのは、ほとんど同時くらいだった。栞を挟んで保田が目を上げると、石黒は二つのカップに湯気の上がるコーヒーを注いでいたというところ。

「手伝うよ。ごめんね、さっきは」
「ふぅん」
「?」

 本をテーブルに腰を上げると、石黒は黙って保田にカウンター越しにコーヒーを差し出した。保田がお礼を言って受け取ると、自分の分も手早く注ぎなおして石黒はカウンターを前に回った。
 向かい合って間にコーヒーを挟んで二人きりで、石黒はしばらく目を閉じて保田の向かい側でじっと思索にふけっているようにも見える。保田は目の前のコーヒーに手を出していいものかどうかと迷いながら、石黒の次の動きをじっと観察して待っていた。

「・・・じゃ、そろそろいいかな」
「いい? 何が?」
「あのね、私は圭ちゃんにどうしても言いたいことがあるの。おおよその察しはついていると思うけどさ」

 どん、と拳が軽くテーブルを叩いた。保田はびくっとして思わず手を自分の膝の上に乗せる。叱られる前の子供みたいに上目遣いでちらちらと窺うと、石黒はゆっくり何度か静かに首を振った。

「今日、私が来るってこと。前にちゃんと約束してたよね?」
「・・・うん」
「それで、そう何度もこうして二人で会えるってことはないこと。それもよくわかってるよね?」
「・・・うん・・・」
「あんまりこう言うのって自分から言いたくないけど、私としては今こうしてるのも貴重な時間であるわけ。いくら休みって言ってもやるべきことはないわけじゃないし、それにここにこうして来るってことも、いろいろ気を遣ったりとかあるし。その辺のことをきちんと踏まえて・・・」
「うん」
「そういう態度って、ひどいと思わない?」

 ぐいっと顔を前に突き出した。
 軽く揺れたテーブルの上で、コーヒーが数滴皿に流れた。保田は唇を噛んだ顔で自分をじろっと睨んでいる石黒を前に汗が額ににじんできた。
 どうどう、と肩に軽く触れると、石黒はまた首を振って自分の椅子に身体を戻した。脚を組んで、まだ言いたいことはあるけどそれ以上は言っても仕方ないって言いたそうだ。
 保田は困って頭のてっぺんを引っかいてみる。

「ごめん」
「謝って済むなら、警察はいらないね」
「いや本当、まじで。ごめんなさい。どうもすみませんでした」

 保田はテーブルに両手をつくと、深く額が台の上につくほど頭を下げた。できるだけ真剣に、神妙にと顔を作って何度もそれを繰り返す。数分ほどそうして頭を下げていると、「ふー」と今日何度目かのため息が聞こえたような気がして、ちらっと視線を上げてみた。
 そこでは横目で見下ろすような石黒の顔。

「・・・反省してる?」
「してる。いや、してます。十分しました」
「本当に? もう絶対にしないって約束してくれる?」
「うん。する」
「よろしい。それならいいかな」

 石黒はそこまで言うと組んでいた脚を解いて椅子から立ち上がった。それからダイニングを抜けて、居間のソファーに先回りして、保田を振り返る。
 ちょいちょい、と手招きして保田が追いつくと、そのソファーの上に座らせた。深く保田が腰掛けたことを見て取ると、今度は自分がその脇に膝をつく。

「じゃ、今日はそのお詫びをしてよね」
「お詫び? どんなこと?」

 だって、自分料理が得意とかってんじゃないし。おごるにもどこかにこれからくりだすって雰囲気でもないし。はて、前から何か欲しがってたものとかあっただろうか、と保田が膝の上に手を乗せられながら考えていた時。
 石黒はそのとぼけたような保田の顔を見て微笑むと、膝の上に自分の頬を落とした。

「これから、私にたっぷり甘えさせてちょうだい」
「た、たっぷり?」
「そ。文句一つ言わないで、私のことを、丁寧に、大事に扱ってよね」

 言って保田の腿の上に頬をこする。保田はその提案にしばし戸惑ったものの、しばらくそうしておねだりするような石黒の頭を見ているうちに、「それもいいかな」と思えるようになってきた。
 手始め、といってはなんだけどまずは髪の毛を邪魔にならないようにとちょっと指先で梳いてあげる。石黒は気持ち良さそうに目を細めた。

「気持ちいい?」
「うん。もっと撫でて。優しくね」
「いいなー。あたしもやって欲しいんだけど」
「ダメ」

 石黒はそこで身体を引き上げて、保田の隣に座った。手を差し出して、手のひらを保田の顔の前に見せた。受け取って保田は手のひらの丁度くぼんだところに唇をつける。
 満足そうに石黒は次、と手首の裏側を差し出す。同じように保田は口付けて、差し伸べられるままにそれを順に上へと動いていく。

「いいねー。そうそう、今日は一日私にそうして奉仕しなさい」
「・・・奉仕。なんかその言い方嫌かも」
「じゃ、誠心誠意尽くして」
「はいはい」

 石黒の手が腰の辺りに伸びて、ゆったりともたれるように背中をソファーにつけて抱き合った。頬と鼻とに丁寧にキスをして、着ていたブラウスのボタンの一番上に指を添えた時。不意に保田はさっき読んでいた本のことを思い出す。

「(あの主人公、列車に乗ってそれからどこに行ったんだろ・・・)」

 止まった動きから勘良くそのことを察したらしく、石黒に保田の髪の毛を引っ張られる。
 やれやれ、かなわないな。今日はもうあれ以上は読み進むことはできないだろうな。
 保田は思った。

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