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14.勝負
20歳を過ぎてもうだいぶ経つし、慣れたつもりでもあったけどやっぱりこの人には勝てないなぁ、と保田はちょっと眠くなった目をこすって、目の前で手酌をしようとして中身を振る中澤の顔を見た。
数滴がぐい呑みに落ちて、それ以上入っていないことがわかると小さく舌打ちした。
「なくなったみたいやから、新しく作ってくるね」
「うん・・・でもあたしはそろそろもうダメだよ」
「んな弱気なこというて。まだまだいけるて」
と、機嫌よく立ち上がって一升瓶から器用に小さな徳利数本に日本酒を注いだ。ホットプレートの上の鍋に水を追加して、こぼれないようにはめてある専用のフタの中に一本ずつ入れていった。
ことこと、と小さく揺れる音と一緒に、保田の目の前の景色も小さく震えた。
「もしかして、もうだいぶ眠いの?」
「いつもはもうちょっといけるんだけど、今日はちょっと疲れてるみたい」
「残念やねー。今日はとことん語り合おうかと思ってたのにね」
うー、と保田は曲げていた身体を起こして手の甲を自分頬にあてた。手自体もずいぶんあったまっているので正しくはわからないのだけど、それでも鏡を見るまでもなく顔が赤くなっているのがわかる。
頭の中がぼんやりとしているものの、考え事ができないほど酔っ払っているわけでもない。静かだったら眠ってしまうかもしれないけれども、ほかでもない機会なんだし、なんとか我慢できないこともないだろう。
立て直した姿勢でちょっと頭を振っていると、目の前に白い布のようなものが差し出された。
「はい、冷たいおしぼり。ちょっと顔拭いたらいいよ」
「ありがと。けど、おしぼり?」
「さっき圭ちゃん顔が赤かったから、役に立つかなと思って即席で作ったの」
はぁー。と感心してしまった。
自分も人のことは言えないけれども、こういうふうに気の利いたことをしてもらうと、意外半分でちょっと嬉しい。意識してやってるのかは知らないけど、そういう押し引きがうまいなって思うことがあるくらいだ。
自分の分もあるらしく中澤も向い側に座りなおして手を拭いていると、ぼちぼち銚子から薄く湯気の上がるくらいになる。
もらった有名ブランドの日本酒は、やっぱりそこいらで買えるものとは一味違う。中澤は温度を確かめるように最初の一口を含むと、楽しそうに目じりを下げた。
「うまいよ」
「やっぱり、いいお酒だと回りも早いのかな」
「うん? ちがうでしょ。美人が目の前にいるからやないの」
「そうかもね」
保田がさらっと中澤の軽口を流すと、逆に中澤は一瞬虚を突かれたようで顔を紅くしてしまったらしい。「はい?」と突っ込み返すけど、保田はまだ自分のしたこととその効果に気がついたようでもない。
しばらくしてようやく意味がわかったらしく、「ああ、そっか」ととぼけた顔をして顔にかかった髪の毛を耳にかける。
「だって、裕ちゃんは本当に美人だもん」
「そういうことを素でねぇ・・・。ま、いいけど。素直にそう言ってくれるのって、圭ちゃんくらいのもんやし」
と、返しながらも中澤は保田にさとられないように自分の顎を苦笑しながら撫でる。いいよ。いいけど、なーんかね。こういうふうにペース乱されるのはアタシの好みじゃないっちゅうか。
またそれを無意識でやるのがな・・・。
中澤は微妙に乱された自分の気持ちを立て直すように自分の髪の毛を後ろに撫で付けて、目の前で「うー」とちょいとばかしかわいい声を出している保田を見下ろした。
「もう飲まないの? アタシ全部もらっちゃうよ?」
「うん。もうしばらくはいいよ。これ以上飲んだら本当に家に帰れなくなりそうだし」
「帰るつもりだったの?」
「ん?」
「そう? 残念やねー。そっかぁ」
え! と、保田が本気で焦ったように顔を上げた。意地悪そうに笑う中澤の表情の嘘本当を必死に見分けようとしているみたいだ。
とろんとした目をこすって、頭を振る。中澤は、主導権を握り返したことに満足しつつ、潰れそうな相手に対してあんまりフェアじゃないかな、とも思った。
不安そうな顔をしている保田の肩をぽんぽんと叩く。
「えーって。気にしないで。帰れる余裕があれば帰ればいいし、もしどうしても具合悪かったら一晩くらいはここに泊まっていってもいいってこと。ね? そんな固く考えなくて」
「・・・うん。裕ちゃん、ありがとう」
真正直にその言葉ににっこりと笑顔を返されてしまった。
中澤としては、相手が矢口のときみたいに「だって裕ちゃんちに泊まると変なことされそうだからなー」とか、なっちが相手としたら「またー。裕ちゃんはそうしてすぐ適当なこと言って。なっちは世話してあげないんだからね」とかいうふうなちょっと憎まれ口に近い台詞の方に慣れてきた経緯があるもんだから。
そういう言葉を額面どおりに素直にまっすぐ受け止める態度というのは逆に慣れなかったりする。
ぺしぺし、と自分の頬を軽く叩いて気を取り直そうとしている保田の横顔を見て、「またやられたかもしれんな」と思った。
この無防備すぎて誘ってるとでも思えるような態度。これを天然でやるとは、なんちゅうやつだ・・・。恐ろしいね。
「あー。やっぱちょっと酔ってるなぁ。裕ちゃんの顔が二重に見えるもん」
「二重? けどちゃんと顔は見えてる?」
「うん。声とかね、しっかりわかるんだけど。あー、ちょっとごめん」
保田はずるずる、とテーブルから脚を引っこ抜くと座り方を変えた。後ろにクッションが丁度あったりしたのでそれを抱きかかえて、半分横になったような楽な姿勢を作る。
中澤はそれを横目で見ながら手酌で新しくお酒を自分用に注ぐ。
杯を一気に飲み干すと同時にちらっともたれかかった保田に目を移すと、眠そうながらも少し笑っているようでもあった。微笑むというか、幸せげに。
中澤はまたそれにどう対処していいかわからないで一度杯を置くと、新しくあったまった銚子を取り出して注ぐフリをする。「どしたの?」となるべくついでを装って話し掛けた。
「ううん。裕ちゃんと二人だー、って思ってさ」
「そんなん・・・あたりまえやん。アタシが誘ったんやし。急に改まってなによ」
「久しぶりだなーって思って。そんでね、なんかそうなんだーって思ったらちょっと嬉しくなったからさ」
ぶっ、と中澤は思わず軽く飲みかけた日本酒を吹き出した。
酔ってるとはいえ、何を言い出すのよ。この子は。しかもそんな顔をして笑ってるし。無防備すぎるっていうの!
しかし、そこで簡単に気持ちを乱してしまうようでは百戦錬磨(笑)の中澤裕子の名がすたるというもの。中澤はこぼしたお酒をうまく隠して、平静に続きを飲み進める。
「アタシも嬉しいよ。こうしてアタシの飲みに付き合ってくれるの人ってあんまりいないんやもん」
「そうなの? 裕ちゃんのことだから、色んな人を引っ張りまわしてるのかと思ってた」
「引っ張りまわすこともあるけど・・・ほら、心許してゆっくり飲める人っていうのはそんなにいないもんでしょ?」
と、中澤は意識してそういう台詞を言ってみた。
保田は狙い通りに顔を紅くして、「自分?」と指をさしている。中澤が「あんまりいないよ」ととどめのつもりで言うと、保田はかわいそうなくらいに顔を紅く、うつむいて自分の手元をいじった。
うーん。
気のせいかな。そうじゃない気がするけど。
中澤が思いついた考えをまとめようとしていると、身体を起こした保田がちょこんとテーブルに戻って、じぶんの杯を前に差し出した。
「やっぱり、もうちょっと飲ませて。裕ちゃん」
「ええの? 具合悪かったらあんま無理しないで・・・」
「ちょっと休んだから平気。それに、せっかくの機会なんだもん。もうちょっと飲んで、裕ちゃんにあたしの本音も聞いてもらわないと」
がたっ、と動揺して中澤は持っていた銚子を倒しかけた。
幸い倒れたのは空のものだったので大事にはいたらなかったけれど、にしても何てことを言い出すのか。この子は!
それに、本音て! 本音!?
「それに、裕ちゃんの話ももっと聞きたいー」
「アタシ? アタシの話なんていつも聞いてるやん」
「だって、酔うと裕ちゃんていろいろおもしろいこと言うしさ。それに・・・」
「何よ?」
保田は笑って一度はごまかして中澤に注いでもらったお酒をゆっくりと飲んだ。はぁ〜、と満足そうに息をつく。
中澤が台詞の続きをせかすと、保田は言いにくそうにお代わりを欲しがった。
「ちょっと優しくなるからさ。うん、おとなしくなるっていうか」
「そ、そうなん? 圭ちゃん、そう思ってたん?」
「うん。酔った裕ちゃん、実はすごく好きなんだよ」
だからそういうことを素で言うな! ての。
むせそうになる中澤の脇で保田はお酒の続きを飲み込んだ。
口許を指先で拭って、すっかり立場を逆転された中澤をまっすぐに見る。
「あたし、裕ちゃんみたいになるのが目標なんだ」
「あー、そう? 嬉しいね・・・」
て、いうか。
もしかしたらもうアタシを越えてるんやないの?
中澤は思った。
少なくとも、飲んだときの口説き文句は、もうアタシよりも上行ってるよ。多分。
負けを認めて、中澤は自分の杯に入っている分を一気に飲み込んだ。ええい、とりあえずここまでの勝負は終わり。けど今夜中にはきっと逆転してやる。
まだ夜は始まったばかりだった。
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